原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 二性性相 全体から部分へ

普遍性から特殊性へという視点の移動と順序が大切であると語ってきた。客観的事実を見誤る可能性があるからである。これと関係して、全体から部分へという視点の移動や順序が大切であるという指針がある。

沖縄のキャンプ・ハンセンでヘリコプター事故が起きた。そこでいつものようにマスコミが騒ぎ立て、原因究明中である。

昔「禁断の惑星」というSF映画が創られたのだが、宇宙の知的生物が創った巨大な機械が出てくる。この機械は機械の動作に異常をきたしても、外部の力を借りることなく、自らが修復していくのである。人間が外傷を負った際に徐々に自然と傷が修復されていくのに似ていて、驚いたものである。

世の中に全く故障しない機械というものは無い。食品工場であれ、半導体の生産工場であれ、工場の中で稼働している機械というものは、故障が付き物である。工場の外部の人間から見たイメージはものを造っているところであるが。内側から見てみると、それと共にメンテナンスに明け暮れているところでもあることがわかる。

機械はできるだけ永く故障せず壊れないことが望ましいが、やがては壊れるものだということを念頭のしていくことが必要であろう。アメリカは合理的かつ現実的なプラグマティズムを生んだ国である。物事のとらえ方や考え方がアメリカ人と日本人とでは大きく違ってくるために、摩擦が生じる理由の一つは、このプラグマティズムを背景として用いられる確率論的な発想がある。周知のように経験則として得られた、交通事故で亡くなられた人の確率を、とりあえず受け入れざるを得ない、自然発生とみなした事故率、あるいは問題発生率として一応認めて、その他の事象に当てはめてみようという試みがある。

狂牛病問題で両国の考え方の違いが顕著に出てきた事を思い出さずにはいられないのである。分かりやすく言えば、この事故率以内に収まった確率で狂牛病に犯されて亡くなられる人間は、運悪く事故でなくなった場合と同じで、残念なことだが、確率的には微細なものであるので諦めようよということに他ならない。

ところがこの発想を受け入れがたいとするのが、多くの日本人なのである。一人たりともこの病気で亡くなられる人があってはならず、それ以前に、その病気を引き起こす可能性のある牛肉は通関を遠さじということになる。同じ可能性でも一方はパーセンテイジでもう一方は1頭でさ、一片の牛肉でさえ、一人でさえといった意図で使われるのである。

勿論このような態度が日本の物づくりや技術、また匠の技の発展に貢献してきたことは事実であろう。しかし、反面、現実に対する環境対応が遅れる傾向があることもまた事実といわざるを得ないのである。

ヘリコプターは機械であるので、故障するときもあり、墜落することもある。飛行機と同じであり、事故を起こす自動車と同じである。

任意のヘリコプターと全体の機種における事故率の比較も行われるであろうが、オスプレイであれなんであれ、いくらかでも悪果の可能性があれば納得できないと、だだっ子のように主張するのが我が国の至る所に見られる現象である。

米軍のヘリコプターがどんな目的に活用されているか、我々素人が考えてみても、先ず戦闘があるが、救援もあるのであろう。両面ある。沖縄ではヘリコプターが墜落したが、東北の大震災ではどうであったのであろうか?あの瓦礫をみたら、活躍する余地は大変あったことと考える事はごく自然なことである。負の様相もあれば正の様相もある。相対思考(両面思考)である。

事故率を同種の機種の事故率とヘリコプター全体の事故率の比較が為されて、ある判断をするという事もあるであろうが、上述の如く、結局ゼロにならない限り不平不満が出るのが日本人の姿なのであろうか?さて、この率という物も、どのような観点、どのような角度、どのような切り口、といった機軸。基準で設定された物であるか吟味する必要があるようである。なんとか率というと一般に法則に次ぐ印象を持つが、実際のところは誰が見ても明らかなデータである客観的事実の、ある局面を、ある観点である何とか率で、無理矢理えぐり取った、いわば主観的判断である。

しながら、ある基準でもって考えることは,絶対思考(中心思考)に属する物と言えそうである。

私自身の頭の中が良く整理されておらず、混乱の中にあるので、ランダムに思いつくまま考えるというテーマで書き綴っているが、大きくは絶対思考・相対思考・統一思考の三つからなっていると、とりあえず勝手に了解している次第である。いままで語ってきたことは、その中に属している物が多く、本来は弁慶の七つ道具のように、使い勝手の良い数に絞られるべき物だと考えている。

大げさにわざわざなんとか思考と偉そうに言うのは、そう表現した方が記憶に定着しやすいように思うからである。

 

米軍とか自衛隊とか、また防衛といえば、すぐに兵器を連想し殺戮を連想することが横行されている。外的から侵略を受けないようにするために、いざという時のために、兵器を装備していることはその通りである。さらに防衛という視野を広げて安全保障というスケールで考えてみるならば、我が国の戦略も米国の戦略もつまるところ同じで、国家の繁栄の為には、自由貿易の確保とそれを担保する自由航海の安全の確保の二つであろうかと感じる。

報道で中国包囲網といわれている事は戦術的問題(特殊性や部分性)であり、上記の二つの事項こそ、戦略的問題(普遍性・全体性)なのであると考えるのは、私だけであろうか?

またそのことを広く国民は知るべきではないであろうか?

被造世界に観察される陽陰の二性性相とは別にある、もう一つの性相と形状の二性性相を押さえてから、さらに相対思考を深めていきたいと考える。

統一信徒であれば、これは正分合作用の思考的な受け止めであるとか、四位基台の思考的利用であるとか、基本は授受法であることが分かるかと思う。勿論これは厳密な統一理論ではなく、末席の信徒が日常生活において様々生じてくる、問題や課題を考察するための糸口や手懸かりとなることを願って、無理矢理こじつけて纏めている物に過ぎないことを、改めて告白しお伝えし、お断り申し上げる。

できれば、次には全体と部分の考察から構想理想(ビジョン)と理想価値(バリュー)、戦略と戦術について簡単に述べてみたいと思う。