原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

創造原理 二性性相 普遍性から特殊性へ

神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。存在しているものは如何なるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、はじめて存在するようになるのである。

 

客観的事実を元に観察・考察し判断せよ。ということがこの世においても、この道においても肝要であるといった話をしたわけであるが、それではその際に一体何に気をつけてゆけばいいのかといえば、原理講論の記述のように、先ず普遍性から考えよ!ということが考えられるのである。特殊性でなく普遍性である。

ところが特殊性というのは目立つという特徴をもっている。逆に普遍性というのは目立たない性格のものである。

人類が一つの家庭となり兄弟姉妹になるという事は理想として望ましいと思う人々は多く存在しているが、なかなか実現しない理由に皮膚の色の問題がある。

それが差別を呼んでいる。人間は皆、見れば眼は二つ鼻は一つ耳は二つ口は一つと相場が決まっている。同じように見えないところにある内蔵も、心臓は一つ肺は二つというふうに、普遍性を見れば共通しているのである。

ところが特殊性ばかり問題にするので解決の道をふさいでしまうのである。

そこでマッカートニーはワンダーと「エボニー&アイボリー」歌ったのである。

ピアノの鍵盤では黒い鍵盤と白い鍵盤が仲良く美しいハーモニーを醸し出しているのに、神よ、何故僕らにはできないのでしょう?と。さらにマイケルは「ブラック&ホワイト」のビデオクリップで、顔の色や骨格の違った白人や黄色人種また黒人の顔がモーフィングして相互に、また徐々に自然に移り変わる映像表現をしてみせている。

宗教でも仏教徒がキリスト教を理解しようとしたが、学べば学ぶほど、これは相容れないほど違っていると感ずることが多いようである。反対にキリスト教徒が仏教を学んでも同様な結果に陥ることが多いようである。精々仏教の慈悲とキリスト教の愛には通じるものがあるというところで終わるのである。

それどころか仏教といっても様々に仏陀の教えを解釈し、どの経典が仏陀の教えの核心を突くものであるかと判定し、経相判釈なども行われている。キリスト教も例外ではない・宗教も比較検証する際、特殊性の罠に陥ることなく普遍性を中心に、本質を考察していく努力がなおいっそう求められるのである。

各宗教の特殊性や個別性を強調すれば決して宗教の壁を打ち破ることができないことは、人間関係において我を通せば一つにはなりがたいことと変わりはないのである。町で火事が起これば大変だとなるが、その燃えている家や周りは大変だが、その他の町全体は無事なのであり、渋谷で一が刺された事件が起これば、それは特殊性でやはり当事者以外のその他の人は安全なのである。

このことは特殊性に囚われると客観的事実を見過ごし、やがて判断を誤る危険性が存在すると言うことでもある。あたかもそれは、盛りつけされているたくさんの刺身と一緒に備えられたわさびをどっさり頬張って、こんな辛いものが食えるか!と毛嫌いするようなもので滑稽である。しかし、日常生活での我々の習性も、毎日発信されるニュースも、ほとんど特殊性を扱ったものである。我々は目立つものが好きで、止められないのであろうか?

この二つの相対事項の普遍性と特殊性の双極相補は、これに関連する類似のものとしては、共通性と異質性、全体と部分などがある。

少年期にノーベル賞を受賞するユダヤ人の比率が大きいことを聞いて、いったいどんな秘密があるのであろうかと羨ましかったのであるが、どうやらその答えの一つが相対思考であるらしいことが後にわかってきた。

ユダヤ人は頭の中で、一つのテーマを巡って二人の異なる意見の人を立てて討論させていくらしい。そうして充分に吟味された末に結論を下すようである。

私が彷徨っているのは、脳内討論の基本的な方法の中で、今までいくつも挙げてきたような、あらゆる存在物の中に見られる二性性相の様相から、必然的に現れてきたと思われる、二つの相対概念である双極相補の言葉を上手に使って、慣れれば誰でも自由自在に、また円滑に相対思考ができるように補助線を引くことができないであろうか?ということである。

二十年ほど前にマインドマッピングという思考に役立つ道具を知って、何枚かは書いてみたのであるが、それで止めてしまった。現在は多くの人が使っていて応用発展しているらしい。私の関心は独創性や創造性の発揮に有効なのではないかという気持ちからであった。マインドマッピングはその自由な発想が売りであるが、私には自由すぎて面白くなかった。頭の中が明快にはなるが在り来たりのような気がしたのである。これだけ評判が良く利用者が多いのであるから、たまたま私に限った違和感なのかも知れない。

半分自由にして、半分拘束する、言い換えると、半分無意識にして半分意識するような思考法の法が私には相応しいように思えたのである。インスピレーションを待つのではなく、インスピレーションが沸きやすくなるような、呼び水として双極相補の概念のリストをぼんやりと見つめながら、思い沸くことを双極相補の概念で軌道修正して、構造化していくというような感じである。

こうして文章にしてみると、堅苦しく見えるのだが、本人はいつも鼻歌交じりに暢気にかまえて思いめぐらしている次第である。

さて次は共通性と異質性(差異性)か全体と部分について考えてみたいと思う。