前回は、見えるものから見えないものを見る、という話であったが、このことが我々にとって大変重要であると思われる理由は、神様や真の御父様は我々に対して与えてくださる本質的な愛を隠される、秘される事が多く、まんまとその罠に掛かってしまって、神様や真の御父様の愛を表層的にしか認めることができず、本質的な愛を漏れ逃がしてしまうからである。
教会が主の花嫁であるように、信徒も主の花嫁である。もともと男性より対象的に創られた女性は、ごく自然にまた充分に、主に呼応することができる。その姿やそのやりとりを見て、かって羨ましいと思ったことがあった。男性は尊敬することは得意ではあるが、慕うことが苦手である。この両者を併せ持つ敬慕の念を絶えず抱いて、主に侍り仕えるのが我々の、主の花嫁たる資格である。男性には無いものであるから、女性から学ぶしか道がなかった。尊敬する者よりより慕う者の方が、確かに主に近いように思われた。
ある時真の御父様 文鮮明 恵師が夢に現れた。十人ぐらいの信徒と会食をしながら、和気藹々としていると、突然、私のところに来て、両の手のひらで顔中をなで回された。あっという間の出来事で、何がなにやらわからず、みんなの前で大変恥ずかしい思いをした。御父様はにっこり笑っておられた。
ところが隣にいた御父様は視線を下に向けて、そっと私にだけ聞き取れるくらいの声でおっしゃられたのである。
「先生は聖進君のことが心配なんだね。」
その言葉を忘れることができない。
文鮮明 恵師が評価した日本人を、残念ながら私は乃木希典意外に知らない。
一体どういう理由でメシアは乃木はたいした人物だと評価したのであろうか?
203高地という映画を見ると乃木の息子達は激戦の地に行き一人また一人と戦死している。乃木は戦が下手だったという人がいるが、一方当時、飛び道具である爆撃機のような物がない時代に、あの要塞、実際には一つの城のようなものではなく、点在する拠点の複合要塞においては、たとえ多くの戦死者を出しても、肉弾戦でひとつひとつを潰していくしかなかったという見解もある。
私も後者が妥当と考える。
さて、冷戦時代には、国際情勢に関心があったり、通じていた人々にとって、ロシアの脅威は実に現実的なもので、パワーポリティクスによって世界が動いている中、平和ぼけで、その無防備さはあたかも裸の女性が横たわっているような、我が国の有様だった。
現在は知らぬが、聖進様は日本に住んでおられた。
見えるところだけを見れば、それでお終いなのである。
文鮮明 恵父が天の父の心情の対象であるように、最初のお子様であられる聖進様は 文鮮明 恵父にとっての心情の対象であることは疑いのないところである。
ある意味で今以上に侵略の危機に隣接していたのが日本であった。
宗教家として品良く静かに活動していればよいものを、日本侵略を目論む共産主義者の陰謀を暴露し、その運動を思想もろとも粉砕すべく、よせばいいものをと思われる程、
宗教指導者が反共でさえ強烈な違和感があるものを、さらに圧倒的な名称、勝共連合をもって国民に亡国の兆しを警鐘したのである。
そんなに危険な日本に我が子をそのままおいておく親は何処にもいないのである。国外退去という風になるのが究めて普通のことなのである。
そこで我々はただ単に見えるところに止まるのではなく、見えない秘蔵の蔵をあけねばならないのである。
日本が滅びるときには我が子も滅びる、決心覚悟をお持ちの御方なのである。それをことごとく知っている霊界の天使天軍は、自ずと日本を守らざるを得ず、協助せざるを得ないようになってしまうのである。
何を大げさなとわからない者にはわからず、わかる者には然とわかるのである。
御旨故に最も貴重な我が子に、人並みの情どころか、ひとかけらの情さえもかけることを謹んで、かえって情の遠い我々の為に心血を注いでくださったのである。
空海もその著書には秘蔵の文字のある「秘蔵宝鑰」があり
その信仰の核心にやはり秘密の文字のある「秘密荘厳心」があるように
この道の核心は秘密に満ちていると言えよう。
神は人間が生きるのに必要な、空気も光も水も、最も価値あるが故に無償で与えて下さるのであり。文鮮明 恵師も神と同じ思想を抱くが故に、最も価値あるものであればこそ、惜しげもなく無償かつ無条件で捧げるのである。
このように生きる人がいれば、神の人と呼ばれるだろう。
イエス様の時に似て、なんの罪もないのに、文鮮明 恵師がダンベリーの刑務所に収監された際フライデーに写真が記事として載った。書店で堕落人間がその記事を見ながら揶揄するのを目の前にされた、聖進様の胸張り裂けるような心情を思うと、何故我々のように愚かで力無い者がメシアを支えてきたのか、恨めしいのである。本来ならば、先の空海のような人物こそ相応しいのである。お前が教えた弟子どもがこの有様かと、文鮮明 恵師が嘲笑のなかに立たざるを得ないことが無念でならないのである。
初臨のイエス様の時も、再臨の文鮮明 恵師の時も、何故かくも情けない者どもが弟子であらねばならないのかが、歴史の悲劇である。
文鮮明 恵師は 「日本の情は忠孝の源。」と賞して下さった。
おそらくはその忠孝の模範的実践者が乃木希典であったのだろう。
文鮮明先生の聖和に続いて、梶栗先生が昇華されたことは、本当に感謝してやまないのである。
随分話がそれたが、客観的事実思考というのは、批評家にしろ、政治家にしろ、技術屋にしろ、ひとかどの人物の特徴として広く知られている事である。普通のことである。ところがこの普通のことが普通にできない。当たり前のことが当たり前にできない。客観的事実に基づいて考えることができれば御の字だという事だろう。
客観的事実と主観的判断を混同しないことが先決である。今考えている事柄が客観的事実なのか、主観的判断なのかと問いただす癖や習慣を定着させねばなるまい。
彼は優しいと彼女が言った。という文で、彼は優しい、は主観的判断。そのように彼女が言った事は客観的事実。
新聞や報道番組を見れば、プロでさえでたらめなのが、悲しいかな日本の現状なのである。心しておきたい。
中途半端であるが本日はこれまで。