原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

総序 本質と現象の統一 本現統一思考

物事を観察してその事象を明らかにする際には、これは本質なのか?それとも現象なのか?を見極めねばなるまい。本質的事柄の整理と現象的事柄の整理の双方を明晰かつ判明に捉える作業を充分に為して、統一された一つの課題として解決してゆかねばならない。

 

すでに書いたように内的・外的に整理された事柄を、そこで終わるのではなく、統一して見ていくことに主眼があったことと、趣旨は同じである。本質世界と現象世界の関係性は、あたかも心と体の関係に等しく、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものとの関係を持っている。すなわち本質世界を離れた現象世界はあり得ず、現象世界を離れた本質世界もあり得ないのである。一体一如である。

 

このように物事をよく観察し判断する際には、コインに裏表があるように、先ず物事の両面から見てみたり、考えたりしないといけないという、一般的には両面思考というものが大切であり、次に両面を考察する手懸かりとしては、本質と現象・原因的と結果的・内的と外的・主体的と対象的を基本とせよということである。加えて最後に統一して捉えよということが最も重要である。何故なら神がそのように考えられるお方だからである。

 

そこで厳密に言えば、両面思考というよりも、両面統一思考とも言うべきものであろうかと思う。神の世界や本然の世界では全てが円和統一されて至福にに満ちた世界である。われわれ被造物は存在物が存在するための時間と空間という存在様式、あるいは存在形式上に表現されたものである。あたかもレール上に存在する電車に似ていると言えよう。

 

映画が記録ディスクの中に内包されているだけでは鑑賞できないが、再生機によって映像や音響を堪能できるようになる。この時時間や空間が現れたように、神も神の中に円和統一された世界を時空間に限定させて表現されてできたものが被造世界である。

 

時空間に住む我々の思考は時空に限定される。理性を分析比較智と見るなら、構造的に物事を捉えていくしか方法がないのが偽らざる姿であり、限界があると言えよう。そこで神の本質を全知全能だとか、神は愛なりだとか、義の神だとか人間はいろんな事を勝手に言うのであるが、神におかれては全てが円和に融和され完全に統一されていて一如なのである。

 

思うに、知の天使長ルーシェル(ルシファー)は人間の理性に当たる智、比較分析智を神より授けられていたのであろう。この智は人間で言えば長成期の完成級レベルの智とみてほぼ間違いがないであろう。言い換えるならば実はこの理性という智は不完全なあるいは未熟な智なのである。

神の僕として創られた天使と神の似姿・実子として創られた人間とでは与えられた知性の質が大きく異なるのである。あえて名付けるなら円和統一智のようなものとなるのであろうか?生き物の中には脱皮して変身するものがあるが、万物の霊長である人間は見える形で変身すると言うよりは、比較分析智を綺麗に捨てて、円和統一智の体得変心に向かわねばならない責務を負っていると言えよう。この円和統一智とも言うべきものは別の表現をすれば、心情を本源とし原因として現れ出た智慧とも言えるのである。

 

さて、十戒という映画でチャールトン・ヘストン演じるモーゼが紅海を杖で打つと、海が真っ二つに分かれて遙か彼方の向こう岸まで道ができるシーンがある。この現象を見て、神の全知全能を見るか、それともユダヤ民族を奇跡を起こしても救わんとされる神の愛をみるか、それが問題である。現象から本質を学ぶとき、われわれ統一信徒は心せねばならぬ教訓がここにある。その感じ方、そのとらえ方が実に我々の本質を物語っているに他ならないからである。

 

仏教の悟りの世界に無分別智という言葉があるが、なかなか趣があり含蓄のある表現である。分別するのが知の特徴であるのに、そうではないというのであるから、論理的な宗教である仏教が心情を知的に表現したもの、というより心情を原因として現れた心の知的作用を指してそう表現したもののように思われる。

 

統一智・円和統一智は一生参学の大事であることに間違いは無かろうかと考える。心情の体得即統一智の発現であるからである。