原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

総序 事物を内外両面から捉える 内外統一思考

仏教には無明という言葉がある。真理がはっきりわからず暗い迷いの中にいる状態を指している。統一原理では人間の堕落を知的な面から見れば、人間が無知に陥ったということを意味するとある。ところで人間は心と体との内外両面からなっているので、知的な面においても、内外両面の知をもっていて、無知もそれに対応してそれぞれ内的無知と外的無知の二種類がある。内的無知は宗教的無知でゴーギャンの絵みたいに、われわれはどこから来て、何処にいて、何処へ行くのかさっぱりわからないということだ。生まれたのは偶然なのか?それとも必然なのか?来世や神は存在するのか?ということだ。一方、外的無知とは人間の肉身を初めとする自然界に対する無知で、物質の根本は何か、全ての現象は各々どんな法則によって生ずるのかという無知である。前者の克服に携わってきたのが宗教であり、後者の克服に携わってきたのが科学である。内外二つを一つに捉えるというのが統一原理の特徴である。

 

例えば教育について考えるなら教育内容・教育指針といった内的な側面と、校舎や運動場・体育館といった外的側面の両面を考察しなければならないように事物を内外に整理する習慣を培いたいものである。

また人物を見る時に、その言動が内的であるか外的だあるかをよく観察することは重要に思える。特に信徒においては各々の信仰生活の価値基準を表明していると思われるので注意したい。 外的というのは律法的ということと関係している、平たくいえば形式的であり行為を重視する。内的というのは心霊的ということと関係している。内容的であり動機を重視する。イエス様が現れる以前は姦淫という行為をすれば罰せられたのだが、イエス様は心の中で情欲をもって女を見るものは同罪だと断じた。行為より動機を正すことを教えてくださった。ここで間違ってはならないのは、イエス様は決して行為か動機かの二者択一を語っているのではないということである。動機正しければ自ずと行為も正しくなる。つまり創造本然の人間として来られたイエス様においては、動機即行為、行為即動機であり、一体不可分の関係なのである。もともと一つなのである。堕落世界の堕落人間においては、残念ながら神の心情を失ってしまっているが為、本然の世界の本然の人間が統一して感じていることが、分裂して感じられてしまうのである。そこで本然の真義を統一と理解し堕落の真義を分裂と理解しても大きく間違っていることにはならないだろう。堕落の根本が性犯罪、すなわち姦淫にあった事から、恵師(文鮮明先生)より絶対性のの御言葉をわれらは賜った。キリスト教にはアガペーとエロスを相容れぬ独立したもののように捉える風潮がある。愛と性が統一された天の伝統を地上にもたらすために来られたイエス様が殺されてしまったので、イエス様を慕う信徒たちも分裂の苦悩を免れることができなかったのである。本然の世界ではもともと一つのものが、分裂して現れるのが堕落世界の特徴である。つまり絶対愛と絶対性はひとつのものなのである。堕落人間の根本課題が曖昧になったりぼやけないように、絶対性を有り難いことに強調してくださったのである。

 

何故、統一原理なのか、その訳の一端がここにあるのではないかと思う。