原理講論を読む

日常生活の中で 考える糸口を求めて

神の主権復帰は問題ないかと

「英雄たちの選択」という番組がありますが、歴史というのは、どんどん新しい資料が出てきて、定説を覆すことが起こるので、ずっと関心のある事象を追っていかないと、いままでこうだと思っていたことも陳腐化してしまうことがあるようです。

本当に歴史が好きでないと大変ですね。

益村氏は今日のようにインターネット環境の時代ではなく、どのような資料があるのか探すのに大変だったでしょう。

国会図書館や、大学図書館などを利用したり、神保町を散策したりしたのでしょうか?

わたしは日本史に疎いのでほとんどついていけない事が多いのですが、関心のあるところ、たとえば仏教に関するところなどは、いくらか相対できますから、面白そうなことが書かれていれば、なんでも学んでみたいと思います。

 

聖徳太子についても以下のサイトを見ると、何故最近聖徳太子と言わなくなったのかとか、実在しなかったという話を何故聞くのかとかが、われわれでもついていけるくらい噛み砕いて説明しています。

聖徳太子が教科書から姿を消すワケ|十七条憲法(原文・現代語訳・解説) より引用

 

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本当の聖徳太子は何をした人物?

誰もがその名を知る、日本古代史最大級の偉人「聖徳太子」。 かつて旧1万円札の代名詞でもあり、「一度に10人の話を同時に聞き分ける」など、その生涯における超人的エピソードは、1400年の時を経てなお今日に語り継がれています。 もちろん、「憲法十七条」や「冠位十二階」「遣隋使の派遣」など、彼の成し遂げた偉業の数々は誰もが教科書で習った覚えがあるはずです。 ところが近年、「聖徳太子が、じつは存在しなかった」という、にわかに信じられない学説が唱えられ、従来の教科書表記にも影響を及ぼすほどに拡大しています。教科書を見ても、いままでは「聖徳太子」と書かれていたのが、最近の教科書では「厩戸王聖徳太子)」(山川出版社の『詳説日本史B』)とカッコつきの表記に変わってきています。 いったい「聖徳太子」はいたのか、いなかったのか? よく聞かれる10の質問に答える形で解説しましょう。

Q1. ズバリお聞きします。聖徳太子はいたのですか?

いました。でも、その前にひとつ確認しておきましょう。「聖徳太子」と私たちが呼んでいるこの名前は、彼の本名ではありません。これは彼の功績を称える人々が後世になり彼に贈った名前で、贈られた人物の名は「厩戸王(うまやとおう)」。この「厩戸王」は実在の人物です。よって、「いた」となります。

Q2. 「聖徳太子はいなかった」はウソだったのですね。

ところが、そうとも言えない事情があります。「聖徳太子はいなかった?」は、ここからが本題です。

揺らぎ始める「聖徳太子」の実像

たしかに「厩戸王」はいましたが、厩戸王が今日に伝わる「聖徳太子」そのものの活躍を実際にしたのかとなると、話は変わってきます。聖徳太子が行ったとされる数々の偉業と彼との関係をあらためて調べていくと、「意外な結果」へとたどりつくのです。

Q3. まず「厩戸王」について簡単にご説明ください。

厩戸王(うまやとおう、574~622)」は飛鳥時代の政治家です。本名は「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」。用明天皇の皇子として誕生し、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。19歳で推古天皇摂政となり、「憲法十七条の制定」など数々の偉業を成し遂げます。この功績により、後世「聖徳太子」として人々に称えられ、その名がいまに定着しています。

 

聖徳太子がすべてやった」とは考えにくい
Q4. 聖徳太子が否定されるきっかけは何だったのですか?

彼の行ったとされる実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏法隆寺四天王寺の建立)」など、こうして書き連ねるだけで膨大です。 冷静に考えて、「これらをひとりの人物がすべてやったとは考えられない」というわけです。

Q5. 聖徳太子厩戸王との相違点は何ですか?

聖徳太子は上記の偉業をすべて行った、それゆえの「“聖徳”太子」ですから、人物像も明快です。それに対し、「厩戸王」については、当時の史料をあらためて検証する限り、「憲法十七条」も「冠位十二階」も、彼が主体として確実に関与していたという証拠がないのです。 もちろん、だからといって、彼が政治の中枢にいたことはたしかですから、まったく無関与であったとも言えません。現時点では「グレー」なのです。

Q6. 憲法十七条はあったのですか?

ありました。ただ、『日本書紀』にある604年という成立年に疑問が生じているようです。当時の天皇家の持つ権力(=勢力)は、蘇我氏など大豪族とあまり差がなく拮抗しており、この状態で条文にある「天皇中心の国家」をうたいあげるにはまだ時期が尚早だったとの見方と、条文にある「国司」名が未だ使われていなかったのではという疑問点から、「実際の制定はもっと後の時代だった」という主張もあります。

遣隋使派遣は? 法隆寺建立は?

Q7. 冠位十二階はあったのですか?

ありました。ただ、中国、朝鮮半島でも同じような制度はあったので、それを導入したと考えるのが自然でしょう。また、制定の理由は「新しい人材登用が目的」というより、「当時遣隋使の派遣などで積極的に国際化を目指した日本が、先進国としての対外的イメージをつくるため」という意味合いが強いようです。なお、制定に際し、ここでも「厩戸王」の主体的関与の証拠はありません。

遣隋使派遣、法隆寺建立も証拠はなし
Q8. 遣隋使派遣はあったのですか?

ありました。でも小野妹子で有名な607年が最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にはっきりと600年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されています。当時の遣隋使は、後の遣唐使ほどの重要性を持ってなかったとも考えられます。 遣隋使に関しても、厩戸王の主体的関与の証拠は見つかっていません。

Q9. 法隆寺厩戸王が建てたのですか?

わかりません。現在の法隆寺は再建(670年に一度焼失)で、寺院に伝わる仏像も彼より後の時代のようですから無関係。焼失前のオリジナルは、現法隆寺の敷地に重なる形で残る「若草伽藍(わかくさがらん)」と呼ばれる寺院遺構とされていますが、なにぶん、こちらも遺構ですから関与の証拠を見出すのは難しいでしょう。近年の考古学的成果からは、部材類の年代は「再建説」を補強しています。

Q10. では、なぜ「聖徳太子」が作り上げられたのですか?

厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者となった天武天皇(631?~686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめていきます。 そのとき天武天皇は「厩戸王」というひとりの人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これらの偉業すべての部分で関与したとする「聖徳太子」をつくり上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられています。 こうしたことを背景にして戦前につくり上げられた「聖徳太子」像は、いま大きく揺らいでいるのです。

聖徳太子」が教科書から消える?

ここまでの話を整理してみましょう。

聖徳太子の称号は「憲法十七条」をはじめ、数々の功績によるもの。 ★ ところが、最近の研究から、推古王朝は彼一人でなく天皇蘇我氏厩戸王3者の共同体制による運営とされ、 ① 冠位十二階などは「多くの人物」の手による合作 ② 憲法十七条は彼よりも「後の時代」に完成した ③ 遣隋使は小野妹子より「以前から」派遣されていた など、彼自身の実績とは直接関係ないとする可能性も指摘され、徐々に疑問が生じています。 ★ 少なくともこの時代に、彼が天皇摂政として存在したのは確かですが、「聖徳太子」の称号に値する“すべてをひとりで成し遂げた”人物ではなかった、つまりは「“聖徳太子”はいなかった」とする見方が現実味を帯びてきました。
日本史は「進化」している

後に「伝説の学習参考書」と呼ばれた『大学への日本史』の初版は1973年。刊行後の40年の間に、さまざまな歴史的事実が明らかになりました。歴史は絶えず「進化」を続けています。 今回のリニューアル出版にあたっては、まだ上記の議論に結論が出ていないことから、従来の内容に従い、これらは彼の成した功績として記述していますが、人物名は「聖徳太子」とせず、本来の名である「厩戸王聖徳太子)」としました。

(旧)聖徳太子 → (新)厩戸王聖徳太子

現在使われている高校の日本史教科書(『詳説日本史B山川出版社)でも、「厩戸王聖徳太子)」と表記されていますが、次の教科書検定で改訂されるときには、「聖徳太子」の語は本文からは削除されると思われます(脚注では言及される見込みです)。 今回紹介した歴史の「進化」の一例も、現時点での「最新版」ですが、決して「最終版」ではありません。研究・発見が続く限り、歴史教科書はこれからも内容が書き換えられていくことでしょう。

 

Q.ありがとうございました。最後に、「10人の話を~」は本当ですか?

10人がいっせいに言葉を浴びせかけたわけではなく、「10人の話を1人ずつ順に聞いたうえで、それぞれに対し明快な回答を行った」というのがどうやら実態のようです。いずれにせよ、こうした伝説が後世、より彼(聖徳太子)のイメージを肥大させることとなった一因でしょう。 一方で、この「耳が良い(=賢い)」は、彼の名前にある称号「豊聡耳(とよとみみ)」に由来するもので、こうした表現がある以上、実際の「厩戸王」本人も、非常に優秀な人物だったことはまず間違いありません。 歴史は知れば知るほど、楽しいものです。数学や英語と違って、「知識ゼロからでもすぐに学び直しができる」のが、歴史の最大の特徴です。 歴史をすっかり忘れてしまったビジネスマンの方も、これを機会に、ぜひ楽しみながら、学び直してみてください。

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くるとさんの文章では、気になるところがありました。

 

益村氏の著作は読んだこともありませんが、日本の歴史的同時性を紐解いている方のようです。玉木さんによれば、日本の歴史について神主権を復帰する為の歴史として解釈しているとのことです。
 
著作を読んでいないので当たっているかは分からないところですが、日本の歴史が神様の主権を復帰するための歴史と見ることは間違いですと主張します。神様の主権を確立するのは、再臨主が聖誕された韓国において、最初に為されなければならないことです。日本は今日の記事で説明したように、あくまでも父国・韓国において神主権を復帰できる環境を整えるために、育ての母国となるように聖霊に導かれてきた国です。

 

日本の歴史が神様の主権を復帰するための歴史と見ることは間違いですと主張します。
本当ですか?
神様の主権を確立するのは、再臨主が聖誕された韓国において、最初に為されなければならないことです。
善意に読むと、神の主権復帰は韓国が先になるべきで、他の国が追い越してはならないということでしょうか?
どの国であれ神の国、すなわち神の支配による国家となることは望ましいと多くの食口なら考えると思いますが、あまり聞いたことが無い意見です。
摂理国家においても違うというのでしょうか?
 
 
日本においては国造りの最初に、メシヤを迎えるための基台を造る重要性を説いていたのです。藤原不比等のもとで、藤原氏の権力の正当性を強調するように命じられた編集者・学者たちが、知ってか知らずかはともかくも、藤原不比等による偽りの歴史書の中に、絶対消してはいけない神様の足跡を記したのです。
 
しかし、すべての日本民族の心から「メシヤを迎えるための基台」は消しさられ、「和をもって尊しとなす」という第一条だけが日本民族の心奥に刻み込まれました。それが、お父様が語ったところの人道主義世界を日本に現出させてしまったのではないでしょうか。

「日本の歴史の秘密を暴露すると人ではありません」のお父様の御言の真意に迫る!|聖霊のもとにーメシヤの涙

 

神の主権、すなわち神の支配による国家というのは、
個人から家庭、更に氏族、民族、国家、世界、天宙というように拡大していくことでした。
どの国も同様な道筋をゆくというのが普通でしょう。
益村氏の切り口はそんなに奇異なこととは思われません。
むしろ、大変普通の意見かと思います。
 
「神は、いまだかって御心にかなう主権をこの世界に打ちたてたことがない。御心にかなう主権とは、神の摂理に動じ静ずることができる人物(聖雄)が国政を領導する福地主権のことである。それは完成福地化の段階、いわば歴史の終結における主権の可能態である」
 
また、神の主権は、信仰基台と実体基台を造成してメシアを迎えるための基台を造ることによってなされます。
神の国とは、神による支配による国家という意味です。
ところで、日本の歴史には「神の主権復帰」 という概念を用いるべきでないと主張されるくるとさんは、「メシアを迎える基台」という神による主権復帰の用語を、日本の歴史に適用されています。
これは、ご本人の主張に相反する行為のように思われます。
 
山背王子の抹殺を謀ったサタンの手足となって策謀を巡らせ、蘇我入鹿と軽王子を操った人物は、やがて、天皇の影で権力を握るようになっていく藤原鎌足でした。藤原鎌足は今でもなお、大化の改心を成し遂げた功臣として讃えられているでしょう。しかし、神様とサタンとの条件闘争から見つめれば、サタンの手足となり日本をサタン主管の国に貶めた人物となるのです。
 
ここで言う「サタン主管の国」というのは、サタンの主権ということでしょうから、「神の主権」ではなくサタンの主権に下落させたという表現ではないでしょうか?
 

そのような世界的状況下で、厩戸皇子をかなめとして作られた十七条憲法は、人類始祖の罪の蕩減としての、アベルとカインの和を説いた稀有な教えとなったのです。イエスとヨセフの心をひとつにするには、やはり二人の母親の母子協助が必要でした。兄弟に和をもたらすのは、母親が適任なのです。その意味で、神様は日本民族に、世界を和に導く母親の国となってほしいという願いをかけたと思われるのです。

お父様は日本食口の心奥に封じ込められた真の母性を見つめ愛し育んでおられる!|聖霊のもとにーメシヤの涙

 

 イエス様とヨセフの母親は世代が違いますね。
エス様の母はマリアですが、ヨセフの妻でもありました。
そのヨセフの母は摂理的使命を、たとえば天使から与えられた母だったでしょうか?
ヨセフは天使長の立場でした。
天使長に母はいたのでしょうか?
必要でしょうか?
くるとさんは、直感を得た後で御言葉に照らして確認する作業が充分ではないように思います。
そこを批判されてしまうのだと思います。
 
母親の国ですが、
私たちが伝道された頃広く知られていたことは、
「日本がエバ国家になることを神様は反対した。」という先生の御言葉がありました。
どこに書かれているのかは知りません。
それを押し切ってか、あるいは説得されてか、先生はある時点から日本をエバ国家に立てました。
エバ国家として活躍したと先生が判断されて、またある時から「母の国になった」と褒めていただきました。
それは母の国として再出発でもありました。
 
さて、神様ですが、先生のお話では摂理的な意味でのエバ国家を希望されてはいなかったようですから、まして母親の国もありえないかと思います。
ですが、島国は女性的国家ですから、摂理的な使命を持ったということではなく、一般的な意味で、女性国家や母親の国としての成長は願われたと言われるならば、それはそうなのでしょう。
ただ、くるとさんは、特別な意味を込めているように感じます。
 
おそらく、くるとさんは理屈で話すことがそれほど得意ではないのではないでしょうか?
いや、理屈で説明を通すと、かえってくるとさんの持ち味が活かされないのかもしれません。
ですが、心霊と真理によってが基本でしょうから、与えられた直感は原理によって吟味しなければなりません。
 
聖徳太子は、推古天皇仏教の本質を理解してもらおうと試みました。推古十四年、天皇勝鬘経を講義するのです。勝鬘経の主人公は、インド北部にあった大国コーサラの国王の娘で、隣国の王妃となった勝鬘(シリーマーラー)夫人です。彼女が釈尊の面前で大乗の教えを開陳すると、釈尊は賞賛の言辞を挟み、その通りだと是認されるという筋書きになっています。それは彼女が大乗仏教のすぐれた実践者であることの証しそのものでした。つまり勝鬘経とは、仏の心を目覚めさせた女としての心得をさとしながら、すべての人間が仏になる可能性を認めている経文なのです。なぜ女の心得なのか。
 
それは人間に仏心、あるいは神性と言ってもいいのですが、霊性が高められていくためには、母の胎内に宿されたときから注がれ続ける母性愛が重要なのです。その心の土台がなければ、どんなに厳しい修行を行おうとも、仏心とも言える犠牲的愛を体恤することは難しいのです。
 
つまり神様は、女性の母性愛を仏教の教えにより啓発させ、天の使命を受けるにふさわしい器を持つ男たちを、この日本に誕生させようとしたのです。サタンは男の権力欲に直接働きかけて分裂させ、恨みと憎しみの渦巻く世の中に貶めようとしてきます。天は人間の心の根っこから、魔が働く要素を取り除こうとするのです。
(同上サイト)
 
勝鬘経女の心得」や「女性の母性愛を仏教の教えにより啓発させ」とおっしゃるのであれば、
そのような内容が書かれているところを引用しなければならないかと思います。
そんなところがあるでしょうか?
 
誤解されているのではないでしょうか?
 
 

歴史学者でも江戸時代が得意だとか、その中でも家康の研究が専門だとか、とても狭い分野で資料を分析するのだと思いますが、くるとさんは日本史全般を扱おうというのですから、すごいエネルギーですね。わたしなんかは考えただけでも疲れてしまいそうです。

 

こうしてくるとさんの主張の問題点を挙げては来ましたが、

それでもわたしはくるとさんが語る全体像ではないにせよ、

何か貴重な示唆が得られるのではないかと思っています。

聖書や原理講論に出てくるような用語を用いる時には、もう少し慎重にされたほうがよろしいでしょう。

いっそ、そのようなものを取り払ってしまってはと思うくらいです。

まあ、そういうわけにはいかないのでしょうね。

 

ところで、私は最近ロシアについての勝手なイメージを抱いていたのですが、

ルツさんという方が私の勘違いを糺すために、ご親切に色々要点を教えて下さいまして、

その方向で見つめ直してみましたら、

なるほどなあと大変勉強させられました。

御研究の成果が実りますように!

 

 

十七条憲法|十七条憲法(原文・現代語訳・解説)

 


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